h.Tsuchiya

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65歳の『クリスマス・キャロル』

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 ディケンズが『クリスマス・キャロル』を書いたのは約170年前のことだが、何度も映画やアニメや芝居になっている。金にしか興味のない強欲非情な男スクルージが、クリスマスイブの夜に幽霊に会い、次々と自分の過去・現在・未来を観る旅に連れて行かれる。自分が人々の憎悪と軽蔑を受けながらみじめに葬られる姿を観て、スクルージは落ち込む。だが、目が覚めたクリスマスの朝、「今からならやり直せる」と、それまで酷い目に合わせてきた人々を訪ねて謝罪していく……本を読んだ人ならこの筋くらいは知っていると思う。

 クリスマス・シーズンになると、クリスチャンでもない日本人がなんだかウキウキして、プレゼントに張り込んだり、女を口説いたり、なぜかケーキとチキン(七面鳥の替わり?)を食べたりする。だが英米のように、家族一同が実家に集うようなことはないし、教会のミサに行くでもない。バレンタインにハロウィンにクリスマスなどを口実にやらかす日本の奇習ぶりは、今さらコメントする気にもなれないから、ちょっと置いておこう。

クリスマス・キャロル』に限らず、英米の連中は、本当にクリスマスものの話が大好きのようだ。想い出せば、名作の『三十四丁目の奇蹟』は別格としても『ダイハード』も『グレムリン』も『ホームアローン』も、クリスマス映画だった。くくっていえば、ドタバタのあげくハートウォーミングな結末になるジャンル。クリスチャンの告白・懺悔でスッキリ。人生前向きに簡単リセットという気分が感じられる。こういうものが、綿々と引き継がれる精神の系譜、風土というのが、我々日本人には、ちょっとわからない。

 話がよれて脱線しないうちに、『クリスマス・キャロル』に話を戻すと、若い頃は、このスクルージに一片の同情も共感も持てなかった。因果応報で、人生をみじめに終わるのは当然、とも思った。自分の中の「過去」の分量が少なくて、「現在」がやたらととっちらかっていて、「未来」の分量が圧倒的に多いと思っていたからだ。しかし、65歳にもなってみると、圧倒的に「過去」の分量が増えた。「現在」がとっちらかっているのは相変わらずだが、どこかで見知っている、見切りのつくような日々である。そして「未来」の残りがそう多くないことも感じている。こういう状況で、自分をスクルージに重ねてみると、若い頃には感じなかった同情めいた気持ちが生まれる。金に目がくらんだことも、他人にさほど酷いこともしてこなかったつもりなのだが、人生の過ぎた半分に対する後悔や漠然とした懺悔みたいな気持ちがある。 「やり直せるなら……」と思い直すことにも共感できる。

 せめて残っている時間だけでも、おとなしく穏やかに生き、誰かのためになることを心掛け、悪かったところは謝っておかねば……という殊勝な気持ちにならなくもない季節である。その区切りはクリスマスよりむしろ正月かもしれないが。これは65歳にならねばわからんことかも。

 日本では、盆や正月に家族や親戚が一堂に会することも極端に少なくなった。良くも悪しくも自分の、自我の原点だったところに戻ることがない。だいいち、ボクなどは両親や親しい叔父たちも死んでしまって、会うべき人もいないのだから無理だ。それがどんな影響を生んでいるかは判らない。新年になってボクが「善人」になっていたら「スクルージ現象」と笑ってね。

 参考までにいうと、『クリスマス・キャロル』ものでは、英国のアニメが良かった。