h.Tsuchiya

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ゼニよりも時間を回す福祉へ

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 毎朝、新宿通りを16~17分くらい歩いて職場へ行くが、歩きながら、脚が少し引きつる気がしたり腰が重いような気がすると、「あれれ、昨夜は寝相が悪かったかな」とか「やはり運動不足だな」と考える。行き交う色んな人がいる。始業に遅れそうなのか全力疾走してくる若い人、肩を落としてうつむいて歩く中年、オバサンは着ぶくれして肥った猫のように歩いている。いつも気になっているのは、杖をついて片足を引きずりながらゆっくりゆっくり歩いている50過ぎの男性と、手回しの車椅子に乗ったまだ若そうな女性。障害があっても働けることは良いことだが、それで彼や彼女の障害までなくなるわけではない。杖の男性は、人ごみに巻き込まれるのを恐れながら道の端っこを歩こうとしてる。みぞれまじりの寒い朝に車いすは、いかにも辛そうで、ボクは会社に行くのを遅らせてでも、その椅子を押してあげなかったことを悔やんだ。

 「日本の福祉行政は」、なんて声高な物言いをするのは好きじゃないが、それなりに良くなっているのだと思う。ハンデを負っている人を支援し、社会参加の機会を増やすのは、国というものの存在理由にかかわることである。でもそれが不公平感を生むこともある。ある菓子職人は、「今どきの零細自営業者は、生活保護もらっている家庭より貧乏ですよ。あの人たちはどうして当たり前のように権利だと主張するのかね。私らは年金だって雀の涙」とこぼした。原発被災者家庭のあるグループには、数十万の補償金が毎月支払われている。電力会社は国家ではないが、国の支援なり指導に従い、「はいはい、金をまきゃいいんでしょ」なのだ。かくいうボクも障碍者手帳を持つ友人の付添いということで、公的な施設への入場料をタダにしてもらったりしている。むろん、税金やら何やらでその代償は払っているのだが……。

 心身の障害、自分のせいではない事故や災害や、家庭のいざこざ、シングルママなど、何かしら他者の支援と社会参加の機会を求める人は多いが、結局、「ゼニを回す仕組み」イコール福祉ということになってしまっている。そりゃ、世の中万事カネでござんすくらいのことは、ボクも認めるが、どうもそういうのはもう古臭いというか、稚拙すぎる気もする。発想がDQN並みではないか。

 車いすを少し押す。外出や他人に接することに臆病な人とちょっと手を貸す。?シングルマザーの人の子供をちょっと預かる……そういうことの方が価値があるんじゃないか? 上からゼニをまくのでなく、横か後ろに回って手伝う手間=時間を提供する。つまりゼニではなく、何らかの時間を回しあうような世の中っていう方がいいじゃないか。ボランティアという言葉、シェアリングという言葉はちょっと抵抗があるから使わない。「寄り添う」とか「仕組み作りを」なんてのもボクのガラではない。カラーでもない。ただ、気付いたら実践すればいい。そういうことが普通になるはず。少なくともボクの好きな友人たちは、そういうことを自然にしていそうな仲間だ。

 少し気持ちがあったまるようなシーンをおもい浮かべるだけ。その連鎖。そういえば、明日は「立春」。何かいいことが芽吹く季節だろう。