h.Tsuchiya

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まだ遭えぬGuruやRivalに備えて

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 人生という商売を長くやっていると、いろんな窮地に何度も立たされる。そして何とかそこを脱した時というのは、誰かの助けをもらっていることが多い。こういうのは「恩人」(benefactor)だ。ボクにもそう思っている人が何人かいる。無償の愛情を注いでくれた親たちもそうだろう、と思う。こういう感情を持つのは、人が「情」で生きている証拠にもなる。しかし、人は「情
だけで生きているのでもない。「志」でも生きている。そのことを痛感するのは、生きる気合や意義を、そしてベクトルが欲しくなる時だ。そこに必要な存在として考えられるのが、「Guru」(グル)や「Rival」(ライバル)なのではないだろうか。

 「Guru」(グル)はサンスクリットながら英語化しており、「導師」「師父」などと訳される。オウムのアサハラも「尊師」と呼ばれたが、あれは昔ながらの「かたりもん」に過ぎないから論外。もっと手が届かない存在だ。「Rival」(ライバル)は日本語化sてしまったが、元はRiver(小川)=水源を争いあった相手と言うことになる。もっと平たくいえば「競走相手」だろう。

 ボクは、この「Guru」(グル)や「Rival」(ライバル)に、まだ遭ったことがない。尊敬すべきエライ人や凄い奴らはいるが、自分にとって生きる目的・道筋を示すような人、この人と切磋琢磨できれば、自分も成長できると思える存在だ。自分が特別に尊大だとか傲慢だとは思わないのだけど、まだ遭えないなぁといつも思う。

 大事なことは、「遭遇」(encounter)してしまうのだから、こちらは何の準備もできていないことだ。その時に、少なくとも相手に無視されないだけの、人格、見識、技能、経験を持てているだろうか? と考えると、はなはだ心もとない。これがいつも気になっているのだ。もちろんいくら準備したって間に合うものではないが、その日、その時にために、少しは蓄えたり、磨いたりしなくては、とは思う。これって向上心かな? いや、そういう一般論じゃなくて、具体的な人格、外見を備えた個人に遭うための準備であり、ボクだけの価値観から見た「Guru」(グル)や「Rival」(ライバル)なのだから特殊である。もしかして、このクズ記事を、我慢しつつ、寛容な心で読んでくれているアナタこそ、ボクにとってのナニですかぁ~~~~?