h.Tsuchiya

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帰り着いたら、秋の気配

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 盆過ぎからほぼ1週間、郷里の佐渡島に帰ってきた。そこにはたくさんの自然があるからいやでも夏の過ぎていく気配を感じていた。田んぼの稲の色、人気の少なくなった海辺、朝夕のひんやりした冷気……。でも、なんとなく人工物だらけの東京だって、同じなのだとは思わなかった。でも、ベランダの奥まで射し込むようになった日差し、建物の影の長さ、日の出から日の入りまでの時間の短さ、早々と枯れた葉も見えだした植え込み、最後の生命力で合唱するセミたち、空のうろこ雲……。注意してみれば、そこらじゅうに秋の気配が満ちている。

 秋は四季の3番目。「白秋」であり、人生ならば後半戦。盛りを過ぎたしまいどき。来週末には、自分の66歳の誕生日を迎える。生命力の旺盛さと数の多さからゴキブリのように見られている団塊世代も、さすがに60代後半。自分の人生のしまい方を考えねばならないところにさしかかった。なるべく残すものを少なくし、断捨離し、行動範囲を狭めるようになる。……でも、それが知性や感性の衰えも自覚することとは思えない。体力のように年齢に比例するものとは思えないのだ。年取ることをいくらかでもポジティブに考えるなら、そうした能力だけは磨き続けたいし、不可能ではないと思う。

 この個人的な自覚は、どこかで日本という国家の「晩秋」の迎え方、受け入れ方にもつながるのではなかろうか? モノでもカネでもなく、知性や感性の資産を豊かにすることで世界(世間)に受け入れられる生き方にしなくてはいけないような気もするが、ちと口幅ったい物言いに、自分でも照れくさくなる。ま、いま言えることは、年とること自体はそう悪いことでもないようだ、ということ。