h.Tsuchiya

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友達の数

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 いつも何をするのでも連れ立っている。家族でもないがそいつの癖をよく知っている。好むもの嫌うものが一緒……子供の頃、そういう連れ合いが何人かいた。そういう相手のことを「友人」とか「友達」という言葉で、意識しだしたのはいつ頃からだろう? 小学校の高学年か中学校の頃からだった。それも照れくさいような恥ずかしいような気分と一緒に受け入れた気がする。「別に、そう呼ばなくてもいいのに……」とも思った。そういう意識が芽生えだした頃から、いくら親や周囲が「あの子とは友達でしょ」と言っても、「いや、ちょっと違う」と、気分の濃淡があることも感じ始めていた。「友情」だの「友達」だのという言葉、ネーミングが先にあって、外形的に規定されるのに納得いかなかったのだろう。

 その「友情」や「友達」も決して、永遠に続くものではない。色んな経緯があって、縁遠くなるものもいれば、意識的に交流を断つ場合もあるし、死別するものもいる。逆に、歳を経てから互いに友情を認める仲もある。淡いつながりしかないと思っていたものが、意外に深く長く、相手のことを近しく思っていたことに気づかされる場合もある。ただの功利的な繋がりでしかないことを覚悟してつきあう場合もあった。……そんなこんなで、歳をとってくると、「友情」や「友達」というのは、その価値も意義も、決して一義的なものではないことが判ってくる。

 「友達」って必要なものなのか? 欲して得られるものなのか? 逆に、友達のいない人生ってわびしくないか? FBやツイッターなどで、「友達」というネーミングが濫発される昨今である。100人以上の「友達」とやりとりしている人もいる。そういう人を見ていると、うらやましいとはとても思えない。自分とは違う性格の人とだけ思う。

 「人の価値は棺を覆ってからわかる」という。人徳があったとか生前から敬慕されたとかいう人なら、その死が惜しまれる。「誰それの葬儀に弔問客が数千人」というようなことが話題になったりもする。だが、それになんの意味があるだろう。弔問客が友達とは限らないし。そもそも人の価値と友情に関係があるか? 人格半端なヤクザもんだって「朋友」を口にする。

 「君子の交わりは、淡きこと水のごとし」ともいう。色々ありすぎた自分の現在を省みると、友達の数は極端に少なくなった。「淡き交わり」のままで良しと思うことが多い。かといって「君子」ではない。それどころか「小人」のきわみである。


 いつもの喫茶店に行って、よく顔を合わせるオッサンと、どちらかともなく会釈するようになった。どこの誰かもしれないし、口をきいたこともない。ただ、いつも文庫本をもっているのに好感らしきものを感じているだけ……。この程度の交わりで十分だ。