h.Tsuchiya

My NEWS

現代日本のタブー(はじめに)

f:id:RIPEkun:20180928203923p:plain

IBC対訳双書シリーズ 2017 「現代ニッポンのタブー」 新刊(土屋)

(タイトル案)

現代ニッポンのタブー ~その余りにもビミョーな存在~

 

<はじめに>

 2013年制作のフランスのB級アクション映画『パリ・カウントダウン』(Paris countdown)で、主人公がカネに困ってギャングのボスを訪ねるシーンがある。日本食レストランでボスは寿司を食いながら、主人公にもすすめるが、彼が「生魚はちょっと……」と尻込みするのを見てこう言う。

「日本文化なんて、お前らにはあまりにもビミョーだからな」。英語の字幕には「Japanese culture is too subtle for you」と出る。この「subtle」という形容詞は、「微妙な、とらえがたい、名状しがたい」などの意味になる。実は、これこそ「現代ニッポンのタブー」を語るキーワードなのである。

 

 本書はタブーを定義したり、学者めいた文化論を語ったりする難しい本ではない。また日本文化に知識も敬意を持たない若者やガイジンが冒す間抜けな言動を揶揄するものでもない。

本書は、現代の日本人自身でさえ気づいていない、しかし確実に生活場面での言動を制約している、みえにくい何らかの「拘束力」を観察し、考察してみたいのだ。いや、たいしたことではない。

 

 たとえば、麺類を食べる時、日本人は「ズズーッ」とすすり、音を立てて食べる。自分がそうするだけでなく、来日したガイジンにラーメンやそばをすすめる際に、「郷に入らば、郷に従え」で「すすって食べろ」と強要する日本人がいる。しかしアジア圏を含むほとんどのガイジンは、そうすることを生理的に嫌う。幼い時からしつけられているからだ。

慣れない行為に「No!」と言う人に、何かを押し付けるのは少しも「おもてなし」ではない。犯罪に近い。だからこの行為に対して、「ヌーハラ」(ヌードル・ハラスメント)という言葉も生まれてしまった。日本人はこれからも麺類をすすって食べ続けるだろう。そしてガイジンは「No!」と言い続けるだろう。どこまでも交わらない、この些細な文化上の「タブー」はいったいどうして生まれ、どう変化するものだろう……? そんなレベルのことを考えてみたいのである。

 

本書は、身の回りにたくさんあるこうした事象を観察し、考察する本である。そう、決してハイブロウ(hibrow)ではない。もし、本書を手にして、ジェームズ・フレーザー卿の『金枝篇』(The Golden Bough)や、日本の民俗学者柳田国男の『禁忌習俗事典』を現代ニッポンに適用して解説したものか、と期待したのなら、そっと書棚に戻していただく方が良いだろう。

 

 私がこだわるのはやはり「subtle」な、タブーとそうでないものとの境界線である。ある人にとっては「No!」なのに、別の人には「Yes!」であるとか、ある場合には右なのに、別の場合には左とか、昔は多くの人が従っていたのに今ではごく少数しか従わないなど……、 

その違いを誰も明確に、科学的に、合理的に説明はできない。しかし現実にそういう事象が発生している現場に興味があるのだ。なぜなら、人生も世界も不合理なことの連続で、曖昧なことだらけではないか。だからこそ面白くてエキサイティングだ。もし、これが何から何までクリアで、正義と不正義がはっきり区分され、明日の暮らしも計算ずくめだとしたら、生きるに値しない。

日本ほど、「subtle」なタブーに囲まれている社会はないと思う。だからこそ、私はこの国に生まれて暮らしていることをラッキーだととらえている。本書を通して、私はこの国に生きることの面白みを、読者と分かちたい。

 

 本書は、便宜上、いくつかのパートに分けてあるが、この分け方も全然体系的ではなく、「subtle」である。だから読者には、自分の興味の湧くところから読んでいただければ良いと思っている。

 

2018年初春、早速、たくさんの「曖昧なタブー」事件が起きている!

 

土屋晴仁