楽器を奏でるにも原理がある。笛で高音を出すならより細い穴に通すように息を吹く。鼓なら右手で握る調べ緒で革を強く張る、てな具合(らしい)。こういうことを週1で3回ほど学び、4週目におさらい会をしてくれる教室が大森にあった。
笛が専門の友人イオさんがここで小鼓を習ったとかでその会に行った。妙齢のご婦人たち25人がきれいなお召し物で次々登場。これが終日全3組もあるというから盛んなことだ。そのあでやかさもさることながら、研鑚に励む前向きさに感動した。
で、話は前回の「友あり遠方より来る」にからむんだが、『論語』冒頭のあの文は「研鑽」を主題として読むとより味わい深いように思う。3段構成で、最初は「師から学ぶだけでなく練習を続けて習得するのは楽しい」の意味。次は「遠くから友人が来て楽しい」ではなく、「同じ目標で研鑚し合う仲(朋)だから、遠くても来てくれるのか愉しい」のである。そして最後が一番のポイント。「この努力を人に知られなくてもうらんだりしない。それこそが君子だね」となる。3つは繋がっており、基調音は「研鑚し続けよう」というメッセージだ。
孔子は多くの弟子を育てて世に出したが自身の名利栄達は果たせなかった。でもそれでも良しと言えるのが君子であるという……ホンネかな? あえてこう言うところが少し辛くて苦い、そして人間臭い。サンドイッチにたとえると、最後の段はマスタードかピクルスのようなもの。この文句が入ったことで、全体の滋味が深まる。『論語』が廃れない理由だろう。なお、自分と友人ハトリさんとはジャンルこそ違うし、互いに順調ではないが「編集」の道を歩む仲間なのです。