h.Tsuchiya

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ほぼリアル「就老(就活老人)日記」(その21)

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(「ツゲサン的日常」を観察した)
 「ツゲサン」は、漫画家つげ義春に少し似ていたのでこちらが勝手につけたあだ名だ。彼は毎朝10時にママチャリで某マンションの掃除に通ってくる。まず「居室」?のカギを開ける。外部階段下に作られた畳半分ほどのスペースは、モップやホウキなどの物置を兼ねたもの、ひっくり返したバケツが彼の椅子らしい。まず元栓を捻りバケツに水を溜める。最初の仕事は玄関部分だけのモップ掛け。チャチャっと濡らして終り、次にホウキと塵取りを下げて建物の周囲のゴミを拾う。一巡りしたら、水手袋してモップを洗い、最後に周囲にホースで水を撒いた……ここまでの作業に約50分。一つ一つの動作が緩慢、決めた手順で作業したいようだ。居室に入ったツゲサンは、ステンレスポットのお茶をゆっくりと一杯だけ呑み、外に出て、ビルの陰からやっと射し込み始めた陽に向かって日向ぼっこ。10分後、ツゲサンは帰っていった。……実は自分もマンション清掃の仕事に応募し、現場まで面接に行ったことがある。「一人でじっくりできるお仕事で~す💛」に釣られた。だがそこも同様の居室だった。これでまず「人間扱いじゃない」と感じて引いた。ビル清掃のようにシステム化されていない。楽なのはすぐわかったが、半日以下4時間分しか仕事がない。1時間で終えたツゲサンは時給ではないようだ。……この仕事に就ける人は、感じず、考えず、周囲に関心を向けない=「ツゲサン的」性格でないと無理のようだ。生来、野次馬のワシには端から向かぬとやっとわかった。

爺歌43 『僕は流しの運転手』半世紀

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 「粋にかぶった 烏打帽子♪ 皮のジャンバーも 似合うだろ 街のシグナル 赤青黄色 ♪渡るこの世も ハンドルまかせ 「お客さん、どちらまで」♪」という『僕は流しの運転手』(唄:青木光一)がヒットしたのは1957年。……それまでは外車が圧倒していたがこの頃から国産車の生産台数1万台。でも半分がタクシー向けだった。運転できること自体がカッコ良かったし、烏打帽(英語ではflatcap)に革ジャンというのも粋だったのだろう。だが、乱暴な「神風タクシー」も横行し社会的評価は決して高くなかったはず。歌詞中に「タクシー」と言う言葉はなく、すべて「流し」だ。
 写真右は1955年の東京駅南口・タクシー乗り場。トヨペットダットサン110が並び、タクシー用標灯も歩行者用信号機もない。写真下は、現在の広場&行幸通りを行く大使信任式用の馬車。運が良いと観られる。……今、日本のタクシー・ドライバーは、ジャケットに制帽に白袋(手袋)で、言葉使い、マナー、不正のない料金そして自動ドアも外国人観光客には評判が良い。ただ、成り手不足。……すべて様変わりした半世紀という時間が重い。

爺飯65 「大寒」を乗り切る「温かいもの」

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 明後日20日は二十四節季の「大寒」。この冬一番の寒さ、そして陽射しは徐々に強くなり北風は弱まる……はず。連日の外仕事で心身ともに冷える日が続いたから、ついつい温まるモノが欲しくなる。池波正太郎だったら、「ハマグリの汁を使った湯豆腐とチロリで温めた熱燗で……」となるんだろうが、そこまで風流ではない。ワシなりに愉しんだ、この1週間の「温まる爺飯メニュー」を紹介。①豆乳坦坦風水餃子。豆乳は煮こぼさないようにゆっくり温める。辛味は中華火鍋のタレ。②ゴボウやこんにゃくなどの根菜煮をたっぷり入れた「味噌けんちんうどん」。➂「タコ団子」が安かったから舞茸を足して「チゲ風」に。でも、安物の練り物はやっぱりイマイチだった。④疲れて自炊がおっくうだった日に入った日高屋の「ピリ辛とんこつネギラーメン」(560円)。別どんぶりにたっぷりのネギがうれしかった。日高屋は今のところ「担々麺」ぐらいしかすすめない。目玉の餃子はしっかり焼けてないのを食べて以来、一切、注文してない。焼きそば系のある店が少ないのも残念だなぁ。

爺歌42 『少しは私に愛をください』の裏事情

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 これは有名なことかもしれないが、自分は今日初めて知った。今日が誕生日の小椋佳(本名:神田 紘爾、1944年生)作詞・作曲で、来生や陽水も唄う『少しは私に愛をください』(1974)は失恋ソングではなかったという。1971年、当時27歳で日本勧業銀行(後の第一勧業銀行、現:みずほ銀行)に勤め、米国の大学留学中だったのだが、第一銀行と合併することを報道で知った。まさに「寝耳に水」。自分はこの年『しおさいの詩』で歌手デビューして、余技気分でダブルキャリアを満喫しようとしていたが、”冷や飯”喰うかもしれない先輩たちが心配だった。その心情に思いを馳せて生まれたのがこの曲だったと本人の弁。「あなた」とは「会社」を指し、「バラ」は彼の愛した日本勧業銀行のトレードマークであった。……歌って、そうやって生まれるものかも。……彼につき分かったことさらに3つ。(1)芸名の「小椋」は、大学3年時福島・塩原の学生村に滞在。周りの住民の姓のほとんどが「小椋」だったから。(2)1966年、寺山修司がDJをしていたラジオ番組の「5分間なんでもコーナー」で自作の歌を歌ったのが歌手へのきっかけ。(3)胃癌や劇症肝炎も経験しているが、タバコをやめず、1.5リットルのボトルが1日半でなくなるほどのコーラ好き。

ほぼリアル「就老(就活老人)日記」(その20)

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 (ジジババたちの就老キャリアップ作戦)
 過去の職場での厚遇や栄誉など何の役にも立たなくなるのが65歳からのジジババ労働者。……でも慣れぬ仕事とはいえ、当初、任される仕事はタカが知れているから、ふた月もすると馴れ、いや狎れてくる。仕事の手順や基準を、「臨機応変に」とか言って少しづつ変えてしまう。これが事故や失敗の素になる。……これは途をはずすタイプ。もう一つは、現状維持を好まず、自分の能力、待遇、可能性をアップしたくなる「キャリアアップ」のタイプ。……周囲の事例:試験監督をやってきたA子さんは、日本語教師資格を取得するために420時間の養成講座を修了し私大講師を目ざしている。介護ヘルパーから就老したB子さんは、自分の納得の行く介護プランを作りたくてケアマネ資格を狙っている。交通警備で2級資格を取得し資格者配置路線を担当できるようになったCさんは、もう一つ上の警備員指導教育責任者の資格を取りたいという。……自分がガイジンと談笑しているのを見た同僚が、「ホテル執事なら週3日固定給25万以上だってよ」と教えてくれた。だが、まだその志向はない。現状の仕事のマスターでアップアップなのと、世の中を見直す面白い視座と思えるからだ。

爺歌41 黄昏時の『プレイバック part2』

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 狭くて柱の多い駐車場でその事故は起きた。でかい「ヴェルファイア」がバックして柱の角に後部をぶつけたのだ。県外ナンバーで運転していたのは40歳ぐらいの小柄な女性。ペコリと凹んだ後部ドアを見て「はぁ、買ったばっかりなのに……」と溜息。何しろ慣れぬ場所、慣れぬ車、しかも「黄昏(誰そ彼刻)」だから自損事故が起きやすい条件はそろっていた。
 現場に居合わせたワシの頭に浮かんだのが百恵の『プレイバック part2』(1978)。「交差点では隣りの車がミラーこすったと♪怒鳴っているから、私もついつい大声になる♪……坊や いったい何を教わって来たの 私だって 私だって 疲れるわ♪」。歌は「真っ赤なポルシェ」に乗る女が、別れたばかりの若い男への苛立ちをうたう。同名の『part1』 を継いだ気分と分かる。……百恵がロマンスものから大人の女をうたって全盛期を迎えたのは、阿木燿子・宇崎竜童コンビの曲に会ったからだろう。この頃の阿木の才能は、神がかっていた気がする。時代の気分と百恵の「深キャラ」がマッチして、ことばが妙に心に刺さった。柱がクルマに刺さった女は、その後どうしただろう?

 

ご近所で仕事半分、趣味半分

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 今日の現場は家から歩いて5分の荒木町。四谷きっての呑み屋街で歌舞伎町より古い。編集関係者の客も多く、自分は車力門や杉大門通りの入り口近辺の店には行った。街はすり鉢状で起伏が多く現場はすり鉢の底。津の守(かみ)通りが近い、。ここは1700年来、美濃国高須藩藩主・松平「摂津の守」義行(=津の守)の上屋敷があり明治に引き払った。跡地に滝や池や樹々が多いので人が寄り、それ目当ての料亭や呑み屋ができたのが町の起こり。荒木町芸者もいた全盛期は戦前までか?……そういえば昭和初期が舞台の映画『大番』(1957)で相場師の丑之助が愛人おまきに持たせた店「揚巻」も荒木町だった(メモしてあった!)。……その底地、戦後の宅地開発で瀧は枯れたが、池と弁天さんは今も残る。この池の名を「策(むち)の池」という。「鞭」と同義で、策略は、鞭や指揮棒を持って作戦を立案・指揮したからだろう。池の由来は看板になっていて、家康が狩りに出てここで「ムチ」を洗ったからだという。……ラッキーなことに仕事は2時間で下番=終了(ギャラは8時間分)。近所をじっくり散歩して帰ってきた。あぁ、面白かった!