h.Tsuchiya

My NEWS

爺本25 『恐るべき子供たち』(萩尾望都)

f:id:RIPEkun:20190727204637p:plain

コクトー

 『ポーの一族』『11人いる』などで知られ、竹宮恵子と並んで男性ファンも多いのが女性漫画家の萩尾望都。彼女が1979年にジャン・コクトーの小説『アンファン・テリブル(仏: enfant terrible)』を漫画化(1979年)したことで、この作家と作品が日本でも広く知られるようになった……物語の方は、姉弟2人が暮らす世界に美少年が入り込んだことで起きる悲劇(1929年)であるが、この美少年が「年上の者を困惑させる子供」「型破りであったり思慮に欠けていたりする言動によって、仲間や関係者の体面を傷つける人物」、つまりンファン・テリブル、モンスター・チャイルドなのだ……だが、作品発表から半世紀以上たつと、「著しく型破りで、革新的、アバンギャルドであり、非常に成功を収めた人物」などと、若き才人を誉めるようなニュアンスが出てくる……それは作者コクトーの像を重ねるからかもしれない。何しろこの人、、詩や絵画・小説・映画・批評などアートなら何でも来いの「芸術のデパート」なのだ。写真の見た目は病的っぽいが、ちゃんと74歳まで生き、表題作の映画脚本も手がけている……今日、この本を取り上げたのは、日本人の「子育て格差」?が拡大しているかも、と思ったから。デキの悪すぎるガキと親の組み合わせを立て続けにみかけたのがきっかけだ(詳しくは別途書くかも……)

爺歌69 どっちやねん?「心の傷」v.s.「体の傷」

f:id:RIPEkun:20190719190647p:plain

 シグナルというバンドは『20歳のめぐり逢い』で「手首の傷は消えないけれど♪心の痛みは僕がいやしてあげる♪優しさで」と唄っている。一方、ジュリーは『時のすぎゆくままに』で、「からだの傷ならなおせるけれど♪心の痛手はいやせはしない」と唄っている……「心の傷」v.s.「体の傷」、はたして癒せるのはどっちやねん。ネットでは自称カウンセラーどもが、「こちらは直せるが、そちらはどうも……」とかテキトーなことを言っている。ワシに言わせれば、傷がいつまで残るかは深浅によるのだし、PTSDになるか否かはその人しだい。そういうドーデモ良いことを口にするのは、口説き文句にしやすいからだ……面白いのを見つけた。「ことばんそうこう」というバンドエイドみたいなものだが、「痛いの痛いのとんでけ~」とか「まけんな」とかの言葉が印刷されている。「傷を、体と心の両方からなおすため」だそうだ。ま、こうなるとちっとも色っぽくないけどね……ちなみに冒頭の2曲はともに1975年。両方とも老け込んだ爺だけど、声がまだ生きているのはジュリーだった。すごいもんだ。

爺歌68 竹内まりやの『駅』が沁みる季節

f:id:RIPEkun:20190716193214p:plain

 『SEPTEMBER』とか『不思議なピーチパイ』などを唄う様子から普通のアイドル歌手だと思って気にもならなかったのが竹内まりや。だが、この1~2年、彼女の『駅(AFTER YEARS)』(1987年)を何度か聴くうちに印象がまるで違ってきた……「見覚えのある♪レインコート♪……昔愛してた あの人なのね♪」が出だし。駅で昔の彼を見つけたが、声もかけられなかったというありがちなエピソードを、ショートムービーのようにドラマチックに仕上げた曲。とくに気に入っているのは、「改札口を出る頃には 雨もやみかけた♪この街に ありふれた夜が やって来る♪」……雨上がりの駅前にやってくる「ありふれた夜」ってどんな夜だろう? 今の彼とすごす平凡な日常か?……この人は才女である。高校時代留学経験もあるから英語はまとも。旦那の山下のサポートもあるが、子育てで休業してから2000年代になって復活。作詞・作曲の才能も開花し、デビュー40周年の去年3月には芸術選奨文部科学大臣賞(大衆芸能部門)を受賞している……皆さんも、ともかく聴いて「しみじみ」してください。曲を提供された中森明菜岩崎宏美のカバーもそれぞれに良いよ。

爺飯83 「ツンデレ」さんとの付き合い方?

f:id:RIPEkun:20190716180220p:plain

 ギャルゲーの世界には「ツンデレ」さんキャラが定番らしいが、野菜類も「ツンデレ」である。つまり茹でたり炒めたりして加熱する際に、最初はカタそう(ツンツン)していて、なかなか火が通らない(=気持ちが通じない)ように思えるのだが、ある時点を超すと急に柔らか(デレデレ)になってしまう……そのことを計算にいれて、加熱する時はアルデンテで「寸止め」し、後は余熱で処理するのがコツ。「ツンデレ」さんとのつきあい方も、こちらから推すばかりではダメで、ある時点で距離を置くとあとは向こうからクッタリと……なるかどうかはわからない。それにしても男は、どうしてこういうややこしく手のかかる女に弱いんだろう……閑話休題。大家さんからもらった野菜の「ツンデレ」さんたちをどう料理したか、の話にしよう。軽く茹でたジャガイモはベーコンと炒め、パセリをちらして「ジャーマンポテト」に。ナスとちくわを茹で、出し汁で煮びたしにしたものはソーメンと和えてサラダにした……これでほぼ全部食べつくし、保存の効くジャガイモが残っている。さて「ツンデレ・イモ娘」さんたちは、どうやってモノにしようかなっと。

ほぼリアル「就老(「就活老人)日記」(その36)

f:id:RIPEkun:20190713204505p:plain

「なれる」いろいろ

(「なれる」ことへの警戒心)
 日本語の「なれる」のうち、「慣れる、馴れる、狎れる」は似ているようだが少しづつ意味合いが違う。私見では順番に悪いニュアンスが強まる。自分は、同じ状態を続けることで「慣れる」、飼い主や他人に「馴れる」、慎みを忘れて「狎れる」などと使い分けている……警備の仕事ももうすぐ8ヵ月。仕事にはやっと慣れてきた気がするが、日替わり現場と常駐現場では違う。新規の現場はやはり緊張するが、常駐は仕事や環境、同僚たちにも馴れて気楽になる……でも、「このままで良い」とも思わない。いずれ「狎れ」に変わるのがいやだ。そうなると緊張感も薄れて危険度が増すし、新たな知見を学ぶこともなくなる……てなわけで、今月は日曜日にも、建設警備ではない違う仕事を入れて休まずに働いている。「ホニャララ~試験監督」が多い。明日は会場全体の責任者をやる……こうすることで、自分の中にストッパーを作り、「自分らしさ」を見失わないようにしようと思う。そして、どうせなら、「成れる」(完成する」、「熟れる」(成熟する」になりたい……ワシって、意外とマジメなのかな?

爺飯82 もらった「瓜」で「一刻(いっとき)漬け」ほか

f:id:RIPEkun:20190707202203p:plain

夏野菜

 仲良しの大家さんから、木更津の実家で作っている野菜をたくさんもらった。キュウリにナスにジャガイモ、ピーマンと夏野菜勢ぞろい。スーパーなどに並ぶ美々しい姿ではないが、本来の旨味がある……目玉は千葉の名産「はぐら瓜」。水分が多いから切って塩を振っただけで2時間以内にちゃんと漬かる。こりゃ、「一夜漬け」ならぬ「一刻漬け」だ。柔らかくてムシャムシャ食べた……他はどうしよう?ナスの煮びたしやピーマンと挽肉の味噌炒めなんてほぼ毎週作るくらいに好きだが、NHK土曜ドラマみをつくし料理帖』(黒木華。テレ朝のは北川景子だった)でちらと見た。「忍び瓜」なるものに挑戦しようと思っている。キュウリを叩いて軽く湯がき、醤油ベースのタレに漬け込む保存食。あまり旨いので武士が「忍んで食べに来た」のが名前の由来とか。キュウリを茹でることでパリパリ感が残るってのが斬新だ……大好きな『キューリのキューちゃん』もここの江戸の知恵が手本かも。こっちは生姜が特徴だから、明日にでも買ってきて、自家製『キューちゃん』も作ってみようっと……小ぶりのジャガイモも何か作れそうだし、来週いっぱい、色々愉しめそう。サンクス、大家さん!

爺歌67 CCR『雨を見たかい』を素直に聴く

f:id:RIPEkun:20190701204734j:plain

 CCRの『プラウド・メアリ』については、ティナ・ターナーが全く別物にしてカバーし、それもまた絶品であることは前に書いた。この季節、同じCCRで聴きたくなるのが1971年の『雨を見たかい」(Have You Ever Seen The Rain)……この歌については、何でも政治がらみに穿ってみたい連中が、「雨はベトナム戦争のナパーム弾のことだ」なんて言いふらしたが、本当は、バンドが解散の危機に瀕していることでフォガティが感傷的になって作った歌だ……この場合の「雨」は、「天気雨(キツネの嫁入り)」のこと。"Have you ever seen the rain coming down, sunny day?" の部分は、sunny dayが黄金時代のクリーデンスを示唆している。しかし、俺たちに雨が降りかかって来るのが見えたのさ」と証言している……それから40年以上経過した今も、子や孫の世代がこの歌を愛し続けているのが不思議……一例は、昨年12月に登場したこの歌のMV(写真:実際には9分間のドキュメンタリー調映画)。農村に住む20代の3人(男1人、女2人)が主人公で、独りの女性が引っ越すことになった。その子が好きだった男は、3人の友情を壊したくなくて打ち明けられない。でも、「最後のひと時を3人で愉しく過ごそう」となる友情の物語……「この歌は友情の歌」と受け止める世代が引き継いだ。確かに、優しさ、郷愁、悲しさ、愛おしさが伝わる曲だから、その受け止め方は間違っていない。古い歌でも、素直に聴き取って、受け継ぐ世代が必ずいるもんだというのは希望だ。