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心のタネが芽吹く…幸田文の場合

 幸田文(あや)と言えば露伴の娘で家事や暮らしや女の人生を丁寧かつ新鮮に描く作品が多い。それが72歳になってから突然思い立って、富士山の大沢崩れや富山の鳶山・常願寺川有珠山桜島等々に出かけた。慣れないズボンを履き、時には現地管轄職員に背負われ、山体崩壊や土石流、噴火など地殻の弱みが暴露された跡をたどり、知識と見聞を広めつつまとめた。それが『崩れ』という本だ(1991) 「人ばかりが切なかったわけでもあるまい.川だって可哀想だ.好んで暴れるわけではないのに,災害が残って,人に嫌われ疎んじられ,もてあまされる」という自然への寄り添いかたが彼女らしい。
 この本のことは先の能登地震や投稿動画で検索して(landslide、debrisflow、rockfall)見ては思い出していた。それにしても不思議なのは、彼女がなぜこの年齢になって、まるで畑違いの分野に強い関心を向けたかだ。文中に「心の中の知る知らぬの種が一杯に満ちている。ものの種が芽になって起きあがる時の力は、土を押し破るほど強い」と書いてあるのが答えかもしれない。
 人は誰しも心の中に「もの想いのタネ」を多数抱えている。自分でも意外なコトやモノに思い立ち、抑えきれずに突っ走る。彼女の場合のタネが「崩れ」であったのは自身の老いとも重なっていると思う……普遍化していえば、老いることは平坦でも単調でもない。人の心は消えてしまうまでカッカと焚ける熾火(おきび)を抱えている。だからこそ厄介でもあり、愛しげでもあり。哀れでもあるのだと思う。他人事ではない。自分でも「芽吹く」可能性がある。それが怖ろしくもあるが愉しみでもある。
 幸田文については、もう少し書くつもり。