h.Tsuchiya

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「残された10万時間」への想い

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 ある人の計算によると、大学を出て22歳から60歳まで会社勤めをすると、約10万時間を仕事(職場)に費やしたことになるという。ほぼ40年間、社畜というか”飼い犬暮らし”に甘んじてきた時間の量だ。ところが、定年後、85歳まで生きるとすると、それもやはり10万時間なのだそうだ。この先25年間の、”野良犬暮らし”、”自宅警備員””シニアニート”の時間の量だ。

 この圧倒される時間の量に対する「漠然とした不安」が、「目先の預貯金はなるべく手をつけない」といいながら、子や孫には「後々、面倒見てね」のスケベな投資はチビチビするという両面性を持った、独特のライフスタイルになるのだという。シニアの財布を狙った商売が思うほど儲からないのと、オレオレ詐欺には簡単にひっかかるのと、両方とも説明がつくらしい。さらには、図書館やパチンコ屋で無為の時間をつぶそうとする年寄りが多いことの説明にもなるらしい。

 評論家の論議としては悪くない。原稿料なり講演料がもらえそうな話だ。だが、リアルにその渦中にいるものの実感とは違う気がする。膨大な未来の時間の量に対する「漠然とした不安」なんて、大学生くらいの時の方がはるかに強かった。節約する貯金なんてあるはずもないし、彼女さえいないのだから頼る身内なんていない。「どうやったら親のスネをかじれるか」とか「率のいいバイトはないか」とか、「やらしてくれるメスはいないか」ちいったことばかり考えていた気がする。

 そりゃあ「漠然とした不安」がないわけではない。金や健康や仕事のことを深刻に考えたら不安だらけだ。でも、この程度の不安は世代と関係ない。不安がまったくない人間なんて赤ん坊くらいだろう。今の気分では、残っている時間で、「もうちょっと何かできる」と思っている。漠然としたものに設計図を与え、構築的にカタチにしたいと思う。前向きなのだ。仲間たちも概ねそうだから、「時間つぶし」に困るようなのはいない。よく図書館に行く友人も、ちゃんとした調べもののテーマがあってのことだ。

 やりたいこと、やれそうなことをいくつか並べ、優先順序と戦略を考えるのは、今までの(若い頃からの)生き方と何も変わらない。少々のカネがあれば、その活動への生きる投資に使いたいと思う。どうも、こういう気分は、65歳を過ぎた当事者にしかわからないと思う。

 で、これから何をやりたいのか? を書こうと思うのだがあちこちに支障が出たらまずいから、しばらくは控えよう。暫定的結論として、「残された10万時間」という発想ではなく「積み上げていく無限の時間」として考えればいいことだと思う。シニア市場が思うほど伸びないのは、欲しいものがないからだ。オレオレ詐欺にひっかかるのはただのバカに過ぎない。ガキでもOLでも騙されるやつは、いつも、どこにでもいる。それを説明する理屈なんて正しくもなければ、発言される必要もない。……なんとなく、ミヒャエル・エンデの『モモ』に出てくる”時間泥棒”の話を読み返したくなった。