h.Tsuchiya

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「抜き書き帖」から武田百合子

 武田泰淳は『史記』からずっと中国もの、そして戦後の『ひかりごけ』『風媒花』などを読んだが、もう若い読者はいないと思う。ましてその妻・百合子(1925-1993年)が書き続けた山荘日記『富士日記』(全三巻)を知る人は少ないかもしれないが、このタダモノじゃない主婦・百合子の愛らしさ、健気さはなんとか読み継いで欲しいと思う。なお、路地裏や猫の写真で女性たちに人気の写真家武田花は彼女の娘である。
 昭和39(1964)年から13年間の日常が実に沁みる。59年前の同じ季節の日記をつまんでみよう。
「七月十九日 朝十時ごろまで風雨。ひる ホットケーキ。河口湖の通りは大変な人出と車の排気ガスで、東京と同じにおいがしている。湖上はボートと遊覧船とモーターボート。湖畔は紙くずと食べ残しのゴミの山と観光バスと車で歩くところが少ない。夜はトンカツ。くれ方に散歩に出たら、富士山の頂上に帽子のように白い雲がまきついて、ゆっくりまわって動いている」
「七月二十五日 八時、赤坂出発。途中、河口の町で花子の浮き輪を買う。山へ着くと冷たい風が吹いていて。水を飲むと冷たい。何ていいところだろう」
「八月十二日 文春のアオキさんと竹内実さん(注 作家・中国文学研究者)、前十ごろ来る。(注 客人らと戦時中の話をして)私『今度戦争がはじまったら闇を一杯するんだ。この前のときはまだ女学生だったでしょ。自分では何もできなかったけど。闇のやり方は見ていたから今度はできる』」
 そして泰淳亡き後、53年にこんなことも書いた。
「こういう味のものが丁度今食べたかったんだ。それが何かわからなくて、うろうろ落ちつかなかった、枇杷だったんだなぁ……(中略)向かい合って食べていた人は。見ることも聴くこともできない『物』になって消え失せ、私が残って食べ続けているのですが、そのことが不思議でなりません。ふと、あたりを見回してしまう」
 泣かされますね。