h.Tsuchiya

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「抜き書き帖」から『たき火』

 猛暑真っただ中におすすめ。凍り付く「寒さ」が感じられるのはジャック・ロンドンの『たき火』。彼の代表作『野生の呼び声』の後に買った短編集にあった。
 男は極夜でマイナス60度の凍ったアラスカ・ユーコン川を下り、仲間のいる古い採掘場に向かって歩いていた。一匹のハスキー犬とともに。この男「頭の回転が速く、警戒心も強いのだが、それはすべてその場その場のことだけで、先を見通した思慮には欠けていた」。昼飯に用意してきたパンを食べようとするのだが、口のまわりのひげが氷でツララになってそれを阻む。気づかなかった自分を笑ってしまう。「しかし、笑っているあいだにもミトンをはめていない手の感覚はなくなっていく。さらに、最初に腰を下ろしたときに感じていたつま先の痛みがなくなってしまっているのにも気づいた」
 凍傷の兆しを怖れならともかく焚火を準備する。「最初は慎重に小さな火からはじめる。やがてたき火はごうごうと音をたてて燃えはじめ」て、パンを食べるのに成功して、また歩き出したが、うっかり氷の薄くなったところを踏み抜いてしまった。足を乾かすためにまた火を焚かねばならない。だが、場所が悪かった。苦労して火を起こしたのが雪の積もった枝の下だったために、その雪が融けてたき火の上に落ちてしまった。「これは死刑宣告をきいたのとおなじことだ。」
 それからも、ひどくなる一方の凍傷と戦いながら全身でマッチをつかみ、火をつけようとした。手の肉が焼けても感じない。しまいには犬を殺して腸の中に手を入れて回復させようと考えるのだが、警戒した犬は遠ざかる。次にむやみに走り回って体温を取り戻そうとしたが、体力をうしなうだけ。……そしてついに……。
 後で柴田元幸氏の訳本が出たことを知ったし、様々な職業を経験したロンドンの他の著作も読みたくなったが、もう手にする機会はないだろう。いやぁ、寒かった!