h.Tsuchiya

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お裁縫の時間(手袋改造)

 使い込んだ防水手袋を使ってスマホが使える「変形ミトン」を作ることにした。現場で工事車両が入る連絡を受けるたびに手袋はずして応対していたが、どうしても動作が遅くなる。以前の携帯には手袋(グローブ)対応の機能があったが今のOPPOにはない。また指先部分だけ導電性シールを貼った手袋もあるが、精度は良くない。検索でなく電話を使うだけなら右手親指部分だけ何とかすれば良いのだ。そこで手作り!

①手袋をカット。キャップを作る
 4~5年前にセブンで買った手袋は、少しの雨なら浸透しなくて重宝してた。その右親指を半分くらいでカットした。すると三層構造で表層は合皮ビニール、真ん中は薄いポリエチレンシートが圧着され、皮膚側は起毛した化繊。防水の仕組みに納得。次にここから飛び出る親指をカバーする指キャップの型紙を円錐台形に作り、用意した紺地のフリース布を裁断。これを袋状に縫う。手袋もキャップもほぐれぬように切り口をしっかりマツッておく。

②キャップを手袋に縫い付ける
 キャップは手袋にグルリと縫い付けるわけにはいかない。必要な時に指だけ出せれば良いのだから、その分を開けて縫い付ければ完成!さて、テストじゃあ~ん

 もちろん指もすぐ出せてスマホも動くが、「待てよ?」と思ってキャップつけたままで操作して見ると、何と反応するではないか! どうもフリース地に導電性があるらしい。ちなみにこれは昔、MUJIで買ったシャツで今や布巾に切り刻んだもの。こんなことなら他の作り方があったなァ~(笑)この次は人差し指の先をカットしてフリースを縫い付け、グレードを上げて見よう!

 後で調べたら二本の指部分にキャップがある登山用のミトンがあるらしい。皆、考えつくことおんなじだ。「山旅指穴フリースグローブ」¥1980 こりゃ買った方が速いわ(笑)

 

「足弱さん、ま、ねまれっちゃ」

 住民と一緒に古びた団地があり、近くのスーパーへ毎日高齢者たちが買い物に行く。足腰の弱った人が多い。背を曲げ、杖や押し車に支えられてヨタヨタと歩く。互いに支えあう人もいる。苦労してまで出歩くのはどうしてだ?通販や食材配達では嫌なのか?(後ろ姿とはいえ、無断撮影して申し訳ないm(__)m)
 たまに自分が立哨する目の前で転ぶ。手を貸して起こすと「段差があって」とか「目が悪くて」と、まず言い訳。最後に「すみません、ありがとう」と小声でつぶやく。「ついこの間までは、こんなことなかった」と愚痴る人もいる。そうだろうなぁ。誰もがかつてはシャキリ&スタスタと歩いていた美女美男だったんだ…….。そして今彼らが、杖、手押し車、柔らか靴、湿布薬、サプリを買い、整骨院と薬屋を繁盛させている。
 足ヨワさんたちの心の奥にはやり場のない怒りと「焦り」がある。この焦りが老害、老醜、転倒、運転ミスや癇癪、万引等に繋がることもある。
 そんな彼らには、「まぁ、ねまれっちゃ」と声をかけたくなる。佐渡では「座って(ゆっくりして)」の意味になる。その名の居酒屋もある。でも佐渡だけの言葉ではなく、東京方言(標準語)以外、割と各地にある。富山県の観光情報季刊誌も「ねまるちゃ」だ(ただし九州だけ「ねまる」は腐敗するの意味。どう転化したのか不明)。ともかく落ち着いて気分をやすめる方がいい。
 実際、彼らはどこでも座りたがる。ベンチを占有する。だが、ベンチが足りなすぎる。日本中にもっと増やして店前や歩道に一杯並べる。雨天や炎天を考えればバス停みたいな片持たせの屋根が欲しい。これから「ライドシェア」がより本格化し進化すれば、ベンチごとに病院、スーパー、市役所など希望する行き先を決めて、そこで待てばよいだろう。課題は費用と地権かな?
 右下のベンチはイケア製で約1万3千円。屋外で使える「ネッマローシリーズ」の一つ。この名と「ねまる」は関係なさそうだが、偶然が面白い。

祝春節!ベトナム語テキトー講座

 東アジア各国の「正月」は明日からで今夜は大晦日。去年もベトナム春節(テット)やちまきのことを書いたが、今の工事現場にもたくさんの若いベトナム人が働いているので、つい関心が向いてしまう。
 今日は趣向を変えてベトナム語講座にしよっと。でもスマホ見ただけの即席&いい加減なもので4つしか覚えられなかった。日本人(というかワシにも)覚えやすいように強引にもじってます。マジメに読む人は確かめてね。
①あけましておめでとう→「チョコなん枚?」(チュックムン・ナムモイ)
②さよなら→「旅、へ!」(タンビエッ)
③やぁ(挨拶)→「シンちゃん」(シンチャオ)
④またね→「変!辛”らい」(ヘンガップライ)
 とくに①は、ジェットコースターみたいな高低のある発音。ちょっとカワイイ。でも自分は「トリあたま」なので、3歩歩くともう忘れる。仕事の合間に何度スマホを見直したことか。トホホだよ。そのうち職場の連中に教授してもらおうと思っているが「ヘンな警備さんネぇ」と言われるな。 特別家族思いなのがベトナム人の国民性。異国で春節を迎えるのはどんな気持ちだろう?幸いなことにプチ連休だから、寮で仲間と愉しく過ごしてくれれば良いが……。在日外国人300万人中、中国についで58万人(2位)になったベトナム人だが、日本人はその歴史や風土、人柄などをあまり知らない。彼らの中には警戒して閉鎖的になっている人もいそうだが、こちらから気持ちを開くのは悪くないと思う。
 ところでプチ連休の柱は、我らが日本の「建国記念日」。これは大切! 今夜の夕飯はメインが長崎皿うどん。日本の国花にして春の酒「サクラビール」、ベトナムの「カップ・フォー」、韓国のガーリック・ラスク……なんちゅう取り合わせだ。(ベトナムの写真はソフト会社MOR社HPより拝借)

「太郎の屋根に雪ふりつむ……」

 「今夜は都内で積雪」とニュースが盛んに流している。積雪予想たった8cmだというのに(笑)。ジタバタせずに雪を味わえば良かろうに。雪がらみのBGMならいっぱいあるしさ……。
 でも自分は「詩」で愉しもうかな。それも小学6年時の国語の教科書に載っていた詩。60年以上経っても覚えているのは、記憶力ではなく、たった2行の短い詩だったから。ハハハ
「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。」
これだけ。三好達治が1927年(26歳)に発表したもの。この詩では太郎、次郎とあるか二人を兄弟と読むのは違う。「こちらの家の太郎」「あちらの家の次郎」という風で、ありふれた呼称で良く、中国の「張三李四」みたいなもの? 書いてないが「三郎を眠らせ~、四郎を眠らせ~」と続きそうな余韻が良い。
 才女・宇野千代は、三好の外と内の極端な2面性を指摘し、外面は「いつでも正気で端然としていて、節度を守っているよう」、内面は「いつでも狂気で、節度を外し、惑溺するに任せていたのではないだろうか」と書いた(『天上の花』)
 この『天上の花』は、萩原朔太郎の娘・葉子の小説で、三好と朔太郎の妹アイとの同棲生活を描き、一昨年暮れに映画化された。三好がアイに「16年4ヵ月も片想いしてた」と告るシーンだけが」印象的。
 文に添えた絵はご存じ東山魁夷の『年暮る』。京都ホテルから見える除夜の夜の町並みだ。「カレンダー画家」と揶揄する人もいるが、装飾品としては十分美しい。

70年目のゴジラを40年ぶりの友と

 周回遅れながら『ゴジラー1.0』を観てきた。モノクロ版は売切れで音響バリバリのIMAXで。アカデミーノミネート効果もあってか老若男女が多かった。今回、付き合ってくれたのは3つ年下のデザイナー・イシカワくん。大学中退の自分が試行錯誤でデザインと印刷代行の商売を始めた時に参加した法学部生。1974年、怖いもの知らず、いや全然モノ知らずの仕事に付き合ってくれた。その後10年くらい交流したのちに途絶えていた。自分の真っ黒な歴史時代を見てきた目撃者でもあるが、そのあたりの話を書くと長くなり過ぎるから略。
 東宝の『ゴジラ』シリーズは1954年に始まるから今年は70年目。映画の中身や感想はたくさんの人が書いているので略すが、自分が感心したのは、多くの脇役、無名のエキストラ、多岐にわたる専門スタッフらが出てくる映画のエンドロール。中に八百屋さんの名前も。野菜が出てくるのは、闇市のシーン、捨て子アキ子に大根を食べさせるシーン、男たちが鍋を囲むシーンだけだが、それを律義に書いて謝意を示すところに山崎監督らしさを感じた。エキストラの扱いもうまかった。前に監督した『ALWAYS三丁目の夕日』でもゴジラ襲来が描かれているが(右下)逃げ惑う群衆エキストラとVFX(CG)の呼吸がぴったり。その群集っぷり?から「山崎組」と呼ばれるのもうなずける。
 概してこの映画、ヤマトオノコとナデシコが凛々しい。迫力にドキドキしつつその健気さに涙が出る。そして無名の人々が「良い映画を観たい、出たい、作りたい」と想っていることに感動した。
 イシカワくんは時代設定と「ー1.0」の意味が理解できたと感想……そんな話もしながら、旧交を温めてのんびりもした良き一日だった。

朝ぼらけの「味わい方」

 毎朝6時半に家から10分の「曙橋」へ行き、そこから電車に30分ほど乗って勤務地某所に着く。今朝は東の雲間から太陽が出てきた。この時間帯を「朝ぼらけ(朝朗け)」という。漢字1字なら「𪰪」。これより少し早く周囲が明るんで来たタイミングは「あけぼの」(「ようよう白くなりゆく山ぎわは、少し明かりて~」(枕草子「春はあけぼの」)。
 西の空には、まだ沈まないままの月=有明の月がかかる。満月から4日経ってすでに右側から欠けてきている下弦の月で、弦側は日ごとに細くなっていく。なお、丸みの残る左側は「弧」。宵っ張りの月で、夜の9時過ぎでないと天空に登場せず朝まで西空にかかっている。
 この「朝ぼらけ」と「有明の月」の両方が出てくる冬の和歌があった「あさぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に ふれる白雪」(古今和歌集小倉百人一首坂上是則蝦夷征伐、清水寺建立者、蹴鞠名人〉」
 寒く気ぜわしいだけの単なる冬の通勤だが気分をあらためた。この季節の、この風景は千年前から変わらずにあったわけで、立ち止まって、見渡して、初めてそのことに気づく。ここはやはり古語めいた言葉が似合うね。
 日本文化、情緒というのは英語のsabtle(サトル。微妙、繊細、ほのかな、つかみどころのない)だと思っている(他の本でも書いたけど)。
 実は今、『ことだま(言霊)百貨店』なる珍妙なタイトルの本を準備している。レトロな百貨店の各階(各章)ごとにジャンルの違う日本文化と日本語を語るもの。日本の若い人、海外の人にも、一段深く(=面白く)伝えられる分厚なものを構想している。マンガや図版一杯で、色んな研究者、クリエイターの力を借りないとできない。いつれ詳しく書くから知恵を貸してね(笑)。

新、反、非、脱、総、全そしてシン

 何かの名詞や概念にさまざまな「接頭辞」を付けると、別物のような印象になる。例えば「反原発」「非武装」「神対応」等々……「シン」はアニメ監督の庵野秀明が「シンゴジラ」(2016)で、「神、震、真などの多義を込めて使って」から流行り出した。この解釈は専修大教授の武田徹氏の受け売り。ついでに彼の指摘した「シン」をもう一つ。元共産党員•松竹伸幸氏の著作『シン共産党宣言』のことだ。党首公選制を訴えたこの本では、「シン」にで進化の意味を込めたようだが除名されて今は裁判沙汰。新党首になってももめている様子を見ると、共産主義の「民主集中制」と常識的な民主制は調和せず、進化より退化に見える。政局の話題ついでに「派閥」の今後にどんな接頭辞たらピタっとくるんだろう? 脱派閥、消派閥、廃派閥、隠れ派閥……何をつけても新味は無さそうだなァ。徒党(派閥)を組むことが問題じゃ無くてカネにだらしない本性が問題なんだからね……イヤイヤ、自分に似合わない話題の「床屋政談」は止めとこう(笑)
「♪けれども問題は今日の~(陽水「傘がない」風に読んでね)「歯抜け」だよ。そう、また抜けて入れ歯が支えられなくなった。咀嚼できないと嚥下力の細い自分には大変なのだ。この先に見えているのは「総」入れ歯!「総」は壮絶だなぁ。そうまでして生きていたくないんだが……神様のシナリオに任せるしかないのか、トホホ。